マーケットでのこと

20年前と多くのことが変わったカンボジアだけれど、その一つに

物乞いの人を見なくなったこと

がある。

実際には全く見ないというわけではないんだけど、その数は以前と比べ物にならない。
もちろんそうしなくても食べていける人が増えたのは喜ばしいこと。
でも以前との差にちょっと違和感も感じる。
なにか、強制退去的なことではなければいいんだけど。

先日行ったプノンペンのマーケットにてあぐらをかきお金を欲する方とすれ違った。
これまでも何度か見た経験はあったものの、まだ息子にとっては刺激が大きく、さらに近くで自分に言っているように感じたのかもしれない。

立ち止まって、あの人お金くださいっていってるの?
と。

そうだよと答えると、

あげようよ。

と一言。

むずかしい。
こうやって改めて思いだして書き出してもむずかしい。

小学生のころ、学校でユニセフ募金があってお小遣いからだしたことがある。そこに見返りは求めてないし、あ、親にえらいねとは言ってもらいたかったかもしれないけど、それ以上のことはなく、ただただ貧しそうなかなしそうなこどもの写真を見て助けたいと思った。

大人になるにつれて知識や情報を得て、いつのまにかお金を渡すことは本当の意味でその人のためにならない、もしくは逆にその人のこれからを邪魔するんだという意見を聞き、それもそうだと思うようになった。
実際親がこどもをつかって物乞いさせ、こどもがもってきたお金で酒やドラッグを買う、とか、
真面目に働くより外国人にもらえば稼げる、とかはあると思う。

お金よりお金を稼ぐ方法を。
きれいな学校より教師を。

十分にわかる。

だけど同時に、小学生のわたしがそうだったように、8歳の息子がそこまでを理解するのはむつかしく、
さらにその自分より困っている人を見る目に大人のような色眼鏡はもちろん、奢りや同情もまだきっとなくて。

ただただ目の前にいる人になにかしたい(実際に困っているのかという点はここではおいておいて)と感じたんだろうなと思う。

わたしは普段そういう方へあまりお金を渡さない。
今回は息子にどうするか委ねた。
もちろんそのお金はわたしが稼いだものであるから、
そういうことはまた別で話そうと思ってる。

普段人に話しかけるのが苦手、
欲しい物があっても自分で買っておいでというと諦める消極さだけど、このときはわたしから受け取った500リエル(15円くらい)を迷わずそのおばあちゃんらしき人に渡しに行った。

だからどうこう、という話じゃない。
偉いとも思わないし、今日これをしたからといって優しい子、でもない。
どう感じたからどうしたいと考えるきっかけになればいいなとわたしが思った出来事。

そして日々身近にいるわたしにはもっとわかりやすく優しくしてもらいたいいものだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする